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 フィヒテの著作の紹介
『全知識学の基礎』(1794年)
Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre (1794)

     拙稿の目次
はじめに
フィヒテの『知識学』について 
凡例

訳語一覧 
 
  『知識学の概念』の目次
第1部 全知識学の諸原理
  第1章 最初の、まったく無条件な原理
     [自我は自らを措定する。]
  第2章 2番目の、内容の面で限定された原理
     [自我は非我を措定する。]
  第3章 3番目の、形式の面で限定された原理  
     [自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。]
     :1, 2, 3, 4, 5
     :1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9
     :1, 2
     , , , , , , , ,
第2部 理論的知識の基礎
  第4章 第1の命題  
     A:分析すべき総合命題の規定
       1, 2 (1, 2, 3, 4)
     B:上記命題に含まれている対立一般の総合、そして総合一般
     , , , ,
     , 2, 3, 4, , 6, 7,8 , 10, 11, 12, 13, 14
      I-1, 2
        II-1, 2
        III
        IV-1, 2 (1, 2, 3)
     : , (a, b)
     II: 1, (a, b)
 (以下、工事中)
     III: 1-α, β, γ
        2-a (α, β, γ- 1, 2, 3), b (α, β, γ- a, b, c) 
     *: 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7,8 9, 10, 11, 12, 13
     表象の演えき:
       I, II, III, IV, V, VI, VII, VIII, IX, X, XI

第3部 実践の学問の基礎  
  第5章 第2の命題
  第6章 第3の命題
  第7章 第4の命題
  第8章 第5の命題
  第9章 第6の命題
  第10章 第7の命題
  第11章 第8の命題


第2部 理論的知識の基礎
  第4章 第1の命題
コメント:
 この章の区分は、非常に複雑なものになっています。いかにも、講義の進行に合わせながら、急ぎの原稿を書いていったということがよく現れています。段落区分をこのページの上部にのせていますので、確認をするときには利用して下さい。
 Realitätを多くの場合「実在性」と訳しましたが、文脈によっては「実在」、「実在物」としました。ニュアンスの差はあるにせよ、意味は同じです。
 「絶対的活動」などで使われる「絶対的absolut」という用語は、経験的意識に現れる前の、超越論的(先験的、存在論的)事態を意味しています。

 Cの第2節では、「すべての実在は活動的である」と主張されます。いわゆる弁証法的世界観の端緒が示されるわけですが、この活動(運動)とは、時間的な条件とは無縁であることが同時に言われています。
 つまり、弁証法的運動とは、物理・心理的な、実在的・経験的な運動なのではなく、存在論的なものです。卑俗に言えば、意味論的なものなのです。

 Dの第14節では、「実体とは、一般的に考えられたすべての変化である。Die Substanz ist aller Wechsel im allgemeinen gedacht. 」が光ります。
 なるほど現代では、客観的実在論の代表と目されるのは、自然科学的世界観です。客観的実在が、原子、素粒子、超弦の振動などと変遷することはあっても、物理学者が対象としている客観的実在Xこそが、真の実在物(実体)とされ、人の精神世界も含めてすべてはXの組み合わせ、ないし働きだとされます。しかし、この科学的世界観の論理構造自体は単純であり、いわゆる「感覚質qualia(例えば、赤いという感じ)」の欠如など、さまざまな欠陥をもっています。
 ところが、スピノザの実体は、思惟(精神)と延長(物質)を属性として備え、しかも実体=神=自然の壮大な形而上学です。この客観的必然性の哲学に反発はするにせよ(「独断論」と蔑称されました)、どこから突破口を開けばいいのか――そのときフィヒテが実体の成立を、自我の活動から謎解きをしてみせたのでした。

 Dの「注釈」では、古い矛盾を解消しても、新しい矛盾が生じてくることが、言及されています。この論点を進めますと、ヘーゲルの「矛盾による発展」になります。

 Eでは、事態を外から眺めている知的存在(いわゆる学知者)には分かることも、当事者である自我には視角の制限上不可知であることが言われます。この論点は、シェリング、ヘーゲルへと引き継がれます。いわゆる弁証法的発展の一契機をなします。

 I では、いわゆる実在論と観念論の成立を、フィヒテの立場から解説します。そして、理論的にはどちらも正しいと、一応の結論を出しています。

 II の2, b では、「外化Entäußerung」の用語が、顔を見せます(従来の訳語「放棄」は、文脈からして不適当だとおもわれます)。しかし、これはまだ遇有性について言われていることであり、疎外論とはまだ関係がありません。

訳(全訳ではありません):
 私たちは、3つの論理的原理を提示した:まず、他のすべてを基礎づけるところの同一性の原理 [A=A]。そして、この同一性の原理において、相互に基礎づけあうところの2つの原理、すなわち、対立措定の原理 [非A≠A] と根拠の原理 [Aの一部分=非A]である。
 あとの2つによって、総合的な仕方一般がはじめて可能となり、総合的な仕方一般の形式が提示され、基礎づけられる。したがって、これら2つがあれば反省 [思考] していく上で、総合的な仕方の形式的妥当性を確信するには、じゅうぶんである。
 同様に、自我と非我 [を統一する] 基本的な総合行為、つまり、最初の総合行為において、将来の総合命題のための内容が、提示されており、この面ではそれ以上のものは必要ではない。知識学にぞくするものは、すべて上記の基本的な総合から発展させられねばならない。
 
 基本的総合から発展させねばならないのであれば、この総合によって統一されている諸概念のうちに、まだ今まで提示されてはいない概念が、何かあるはずである [なければ、この総合がなされたことで、知識学は終ってしまう]。私たちの課題は、それらの概念を発見することである。
 それは、次のようなことになろう。第3章によれば、すべての総合的概念は、対立措定された概念の統一によって生じる。したがって、提示されている概念(ここでは自我の概念と非我の概念である。両概念が相互に規定しあうものとして、措定されている限りにおいてであるが。)の対立措定されている特長を、まず探さなければならない。探すことは、私たちの精神の随意的な行為である反省によって行われる。「探す」と私は述べた。というのは、それらの特徴は、すでに存在していること、反省によって作られたり虚構されたりするのではない(一般に反省にはこうしたことはできない)ことが、前提になっているからである。つまり、探すということには、自我の根源的で必然的な反対措定の行為antithetische Handlungが、前提とされているのである。
 反省はこの反対措定の行為を提示しなければならないが、その限りでこの反省は分析的である。つまり、ある特定の概念Aに含まれている対立措定されている特長を、反省によって、対立措定されているものとして明瞭な意識にもたらすということは、概念Aを分析することである。しかしここで注意すべきは、私たちの反省が分析すべき概念は、まだなお反省には与えられていず、分析をまって初めて発見されるということである。分析されるべき概念は、分析終了までは [未知の] Xたるに止まる。そこで問題は、「どのようにしてまだ未知の概念が分析されえるのか?」ということである。

 分析を可能にするような反対措定の行為は、総合的行為なくしては成立しない。しかも、ある特定の反対措定の行為には、特定の総合的行為が必要である(第3章を参照)。これら2つの行為は、内的に統一されており、一つの同一な行為なのである。ただ、反省によってのみ区別される。したがって、反対措定Antithesisから総合Synthesisを推量することができる;同様に、2つの対立措定されているものが、そこにおいては統一されているような第3のものを、反省が発見したものとして提示しえるのである。この第3のものは、自我が行う[自我と非我を統一するという] 根源的な総合的行為の所産である。
 したがって、この根源的な総合的行為は、行為としては、これまで提示されてきた行為 [自我が自己を措定する行為と、自我が非我を措定する行為] 同様、経験的な意識に上る必要はない。これから私たちは、最初の諸行為 [自我が行った3つの根源的行為] のようには端的に無条件ではないにせよ、純粋に総合的な諸行為に出会う。私たちが行う演えきによって、この純粋に総合的な諸行為はなるほど行為であること、自我の諸行為であることが証明される。
 すなわち、最初の総合 [自我が行う自我と非我の総合] が自我の行為であることが確かであるかぎり、純粋に総合的な諸行為が自我の諸行為であることもまた確である。純粋に総合的な諸行為は、最初の総合から発展させられ、最初の総合と共に一つの同じものを形成するのである [から]。そして、最初の総合が自我の行為であることが確かなのは、自我が自己自身を措定するところの自我の最高の事行が、確かに自我の行為であるのと同様である。
 提示される諸行為は総合的であり、それらを提示する反省は分析的だということになる。
 反省による分析が可能となるために前提された上記の反対措定は、先行するものとして、すなわち、明示されるべき総合概念を可能にするものとして、考えられねばならない。しかし、反対措定は総合なくしては可能ではない。したがって、一つのより高次の総合が、すでになされたものとして前提される。そこで私たちの最初の仕事は、このより高次の総合を探すことであり、明確に提示することである。むろん本当は、この総合はすでに先行する文中で、提示されているはずである。とはいえ、学問 [知識学] のまったく新しい部門へ移行するので、やはりその際特殊なことにも目を留める必要があろう。

A. 分析すべき総合命題の規定

 「自我は非我と同じく、自我によって、また自我のうちで措定されているが、それは、[自我と非我が] 相互に相手を限定可能なものとして、つまり、一方の実在性が他方の実在性を廃棄するようなものとして、措定されている。」(3章を参照)
 この命題には、次の2つの命題が存している。
 1. 「自我は、非我を自我によって限定されたものとして措定する。」
この命題はやがて知識学の実践的部門で、大きな役を演ずることになるのだが、今のところは使い道が無いように見える。というのも今までは、非我は何ものでもない無であったからだ。非我は実在性を持ってはいない。したがって、非我が持ちもしない実在性が、どのようにして自我によって非我のうちで廃棄されえるかなど、考えられもしないだろう。非我は無だから、どのように非我が限定されるのかということも、考えられない。だから、非我になんらかの仕方で実在性が付与されるまで、この命題はまったく役に立たないかのようである。
 この命題を含むような命題、すなわち、「自我と非我は相互に限定する」は、たしかに措定されてはいる。しかし、今措定された「自我は、非我を自我によって限定されたものとして措定する。」という命題が、「自我と非我は相互に限定する」という命題によって措定され、またそのうちに含まれているかどうかは、問題である。
 自我が非我に関して限定されえるのは、自我がまず非我を限定したときであり、限定がまず自我から起きたときである。おそらくは、非我は自我そのものを限定するのではなく、たんに自我が限定することを限定するだけであろう。そう考えれば、非我に実在性が帰せられなくとも、また、問題的とされた「自我は、非我を自我によって限定されたものとして措定する。」という命題が「自我と非我は相互に限定する」という命題に含まれなくても、この後者の命題「自我と非我は相互に限定する」は、真であり、正しいものであろう。

 2. 上記の「自我は非我と同じく、自我によって、また自我のうちで措定されているが、それは、相互に相手を限定可能なものとしてである。」という命題には、「自我は、非我によって限定されたものとして、自己自身を措定する。」という命題が含まれている。この命題は、有用である。そしてこの命題は、上記の命題より導出されたのであるから、確実でもある。
 自我はまず絶対的な実在として、ついで量として限定可能な、しかも非我によって限定可能な実在として措定された。こうしたことは、すべて自我によって措定されたのである。そしてこれらのことが、上記の命題の諸契機なのである。

 (次のようなことが、明らかとなろう:
1. 上記2番目の命題「自我は、非我によって限定されたものとして、自己自身を措定する。」は、知識学の理論的部門を基礎づける。しかしこのことは、理論的部門が完結した後においてではあるが。
2. 上記1番目の命題「自我は、非我を自我によって限定されたものとして措定する。」は、今までのところはまだ問題があるにせよ、知識学の実践的部門を基礎づける。しかし、この命題自身が問題を持つ以上、実践的部門も同様に問題をはらんだものとなっている。そこから――
3. 「なぜ反省は理論的部門から出発しなければならないか?」という問いが生じる。知識学の進行とともに、理論的能力が実践的能力を可能にするのではなく、その逆であること(理性自体はただ実践的であって、自己を限定する非我に自己の法則を適用することにおいて、理論的になるということ)が、明らかとなるにもかかわらず、なぜ、反省は理論的部門から出発するのであろうか。それは、実践的原理の思考可能性は、理論的原理の思考可能性に基づくからである。[思考を進めていく] 反省にとっては、思考可能性こそが重要である。

4. こうしたことから、私たちが行った知識学の理論的部門と実践的部門への区分は、問題をはらんでいることが分かるであろう。私たちが、理論的部門を完成できるかどうか、まったく解決不可能な矛盾に突き当たりはしないかどうかといったことは、まだなお分かっていない。いわんや、私たちが理論的部門から実践的部門へと導かれていくかどうか、ということはまだ知るべくもないのである。)
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B. 上記命題に含まれている対立一般の総合、そして総合一般

 「自我は自らを非我によって規定されたものとして、措定する。」という命題は、たった今、第3原理 [自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。] から演えきされた。第3原理が妥当する以上、この演えきされた命題も妥当する。
 私たちはまずこの命題を分析しなければならない、つまり、この命題の中に対立が含まれているかどうか、また含まれているのであれば、どのような対立が含まれているのかを見なければならないのである。
 自我が自らを措定するのは、非我によって規定されたものとしてである。だから、自我は規定されることになる。それに対し、非我は規定し、自我のもつ実在性に境界を措定することになる。したがって、提示された命題「自我は自らを非我によって規定されたものとして、措定する。」には、まず次の命題が存する:
 「非我は自我を規定する。」(ここで非我は活動的tätig [能動的] であり、自我は受動的leidendである。)自我は、絶対的活動によって、自らを規定されたものとして措定する。すべての活動は、少なくとも今まで私たちの知る限りでは、自我より発せねばならない。自我は、自らと非我の両方を量のうちへと措定した。自我が自らを規定されたものとして措定するということは、明らかに、自我は自らを規定するということである。したがって、提示された命題「自我は自らを非我によって規定されたものとして、措定する。」には、次の命題も含まれる:
 「自我は自己自身を規定する。」(絶対的活動によって)。
 上記2つの命題「非我は自我を規定する」と「自我は自己自身を規定する」が、それぞれ自己矛盾しないか、内的矛盾を含んでいないか、したがって自己自身を廃棄しないかどうか、といったことについては、当面私たちは問題にしない。しかし、2つの命題が相互に矛盾するということ、自我は受動的であるかぎり活動的ではありえないこと、またこの逆も成立すること、こうしたことは納得のゆくところであろう。

 (「活動」と「受動」の2つの概念は対立するものとして、まだ導出されても発展してもいない。しかし、この2つの対立する概念から、これ以上のものを推測することはできない。ただ分かりやすくするために、これらの言葉を使ったのである。「非我は自我を規定する。」と「自我は自己自身を規定する。」の2つの命題で、一方のうちで肯定されていることが、他方の命題では否定されている。これは矛盾というものである。)

 同じ一つの命題に含まれている2つの命題が互いに矛盾しあい、そのため互いに廃棄しあう。そしてこれら2つの命題を含んでいるところの命題も、廃棄される。上記の「自我は自らを非我によって規定されたものとして、措定する。」という命題をめぐっての事情はこのようになっており、よってこの命題は自らを廃棄する。
 しかし、意識の統一が廃棄されるべきでないならば、この命題も廃棄されえないのである。したがって私たちは、示された対立を統一するよう努めねばならない。(反省するにあたっては、作為的なものによって上記対立の統一点をこしらえてはならない。意識の統一が、この統一を廃棄しようとする命題と同時に措定されているからには、統一点はすでに私たちの意識のうちにあるはずであり、私たちはたんにこの統一点を探しさえすればいいのである。私たちは今しがた、実際に存在する総合的概念Xを分析した。この分析によって発見された対立から、この未知のXがいかなるものであるかを推測すればいいのである。)

 この課題の解決に取り組もう。
 一方の命題のうちで肯定されるものが、他方の命題では否定される。したがって、相互に廃棄し合い、また廃棄し合わずに統一されるべきであるものは、実在性と否定性である。そしてこうしたことは、限定と規定によって起きるのである。(第3章を参照)
 自我は自己自身を規定する、と言われるかぎり、自我には実在性の絶対的全体が帰属する。自我は端的に実在性として措定されており(第1章を参照)、自我のうちにはいかなる否定性も措定されてはいないのだから、自我は自らをただ実在性としてのみ規定できる。とはいえ自我は自らによって規定されるべきである。しかしこのことは、自らのうちのある実在性を、廃棄するということではない。そうであったとすると、自我はすぐに自己矛盾に陥ってしまうからである。そうではなく、自我は実在性を規定し、この実在性を介して自己自身を規定する。自我は全実在を絶対的定量Quantumとして措定する。この実在 [性] のほかには、いかなる実在 [性] も存在しない。この実在 [性] は自我のうちに措定されている。したがって、実在 [性] が規定されているかぎり、自我は規定されている。
 こうしたことは、自我の絶対的活動である。第3章では自我が自己自身を量として措定したが、そこでの自我の活動と同じものである。
 
 非我は自我に対立措定されている。そして、自我のうちに実在性があるように、非我のうちには否定性がある。実在性の絶対的総体が、自我のうちへ措定されるのであれば、否定性の絶対的総体は、必然的に非我のうちへ措定されねばならない。そして否定性そのものが、絶対的総体として措定されねばならない。
 自我のうちの実在性の絶対的総体と非我のうちの否定性の絶対的総体の両者は、規定性によって統一されねばならない。したがって自我の一部は自らを規定し、またその一部は規定される。言葉をかえて言えば、「自我は自らを非我によって規定されたものとして、措定する。」という命題は、[上記の「規定し、規定される」という] 二重の意味において理解されねばならない。そしてこの二重の意味は、両立できなければならない。
 しかも、両者は同じ一つのものとして考えられねばならない。すなわち、「自我は規定される」という観点においては、自我は自らを規定しなければならないし、「自我は自らを規定する」という観点においては、自我は規定されなければならない。

 「自我は規定される」ということは、自我のうちの実在が廃棄されるということである。したがって自我が、実在の絶対的総体のたんに一部を自らのうちに措定するときには、その実在の総体の残りは自我のうちで廃棄される。そして、廃棄された実在に等しい部分は、[一方での否定は他方での肯定という] 対立措定(第2章を参照)や、量の自己相等性 [全体の量の不変性] によって、非我のうちに措定される(第3章を参照)。(例えば、実在の総体を等しい10個の部分に分け、そのうちの5個を自我のうちに措定するとする。そうすると必然的に、[残り] 5個は否定性として自我のうちに措定される。)
 自我は自らのうちに措定した否定の量だけ、非我のうちへ実在を措定する。対立措定されたもの [非我] のうちの実在が、自我のうちの実在を廃棄する。(例えば、5個の否定が自我のうちへ措定されているとすると、5個の実在が非我のうちへ措定されている。)
 したがって自我は、実在性を非我のうちへ措定する限り、自らのうちへは否定性を措定する。また、否定性を非我のうちへ措定するかぎり、自らのうちへは実在性を措定する。したがって、自我は規定されるかぎりで、自らを規定しつつ自己措定する。また、自我は自らを規定するかぎりで、規定される。こうして、上記の課題は解決されたのである。
 (この解決は、上で課せられたものに対してのみである。というのも、いかにして自我は、自らのうちに否定性を、あるいは非我のうちに実在性を措定できるのかという問いは、依然として答えられていないからである。この問いが答えられないうちは、何ほどのこともないのである。)

 私たちは、新しい総合を行った。この総合において提示された概念は、規定性というより高次の類概念のもとにある。というのもこの提示された概念によって、量が措定されるからである。しかし、この提示された概念が規定性の概念とは実際に違っておるというのであれば、また、提示された概念によって表される総合が、実際に新しい総合であるというのであれば、規定性一般の概念に対する提示された概念の種差が示されねばならない。また、それら2つの概念の「区別の根拠」が示されねばならない。
 規定性一般によっては、たんに量というものが定まるだけである。どのようにしてとか、どのような仕方でといったことは、探求されていない。たった今提示された総合的概念によって、一方の量が、それに対立措定されたものによって措定される。実在性の規定すなわち自我の否定によって、同時に否定性すなわち非我の実在性が規定される。またその逆でもある。対立措定されているもののどちらが先でも、一方を規定することによって、同時に他方をも規定するのである。このような特定の規定を、「相互規定」と名づけることができよう。これはカントが「関係」と呼んだものと同じである。 
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C.対立措定されている2つの命題のうちの、最初の命題に含まれている対立物の相互規定による総合
 Synthesis durch Wechselbestimmung der in dem ersten der entgegengesetzten Sätze selbst enthaltenen Gegensätze

 主要な困難そのものの解決のためには、相互規定を介しての総合をもってしては、ほとんど得るところがないといえる [上記( )内で「いかにして自我は、自らのうちに否定性を、あるいは非我のうちに実在性を措定できるのかという問いは、依然として答えられていない」と言われている]。しかし方法に関しては、私たちは確固たる地歩を得たのである。
 前述の主要な命題「自我は自らを、非我によって規定されたものとして措定する。」のうちに、統一されねばならないすべての諸対立が含まれているとすれば、さらに、それら諸対立は一般に、相互規定の概念によって統一されねばならなかったとすれば、すでに統一された一般的諸命題のうちにある諸対立は、必然的にすでに間接的に相互規定によって統一されているに違いない。
 特殊な諸対立が、提示された一般的諸対立のもとに含まれているように、特殊な諸対立を統一する総合的概念もまた、相互規定という普遍的概念のもとに含まれていなければならない。したがって、私たちは規定性一般の概念を扱ったと同じように、この相互規定という概念をも扱わねばならない。[すなわち] 私たちは規定性の概念そのものを規定したのであるが、つまり、この概念の範囲をより少ない量へと限定したが、それは、「あるものの量はそれに対立措定されているものによって規定される」という条件を、付け加えることにおいてであった。こうして、相互規定の概念も得られた。
 今なされた証明にしたがって、これからはこの相互規定の概念そのものを詳しく規定していく必要がある。つまり、特殊な条件を付け加えることによって、概念の範囲を限定するのである。そうすれば、相互規定という高次の概念のもとに含まれているところの総合的な諸概念が得られるであろう。
 こうして、これらの諸概念を明確な境界線でもって規定することになるのである。そして、諸概念の間で取り違えてしまったり、一つの概念の領域から他の概念の領域へと、迷い込んだりすることも無くなる。明確な規定が無いことによって、誤りは起きるものなのである。

 「非我は自我を規定する。つまり、非我は自我のうちの実在を廃棄する。」しかしこのことは、非我が、自我のうちで廃棄する実在部分を、自らのうちに持っているという条件下でのみ、可能である。したがって、非我は自己自身のうちに実在を持っている。
 しかし、すべての実在は自我のうちに措定されている。非我はといえば、自我に対立措定されている。したがって、非我のうちには実在ではなく、純粋な否定性が措定されている。すべての非我は否定性である。そして非我は自らのうちに、いかなる実在も持たない。
 上記の、非我は自己自身のうちに「実在を持っている」と、「いかなる実在も持たない」という2つの命題は、互いに廃棄しあう。[しかし] 両者は、「非我は自我を規定する」という命題に含まれている。[そこで] この命題は、自己自身を廃棄する。
 しかし、「非我は自我を規定する。」という命題は、前述の主要な命題「自我は自らを、非我によって規定されたものとして措定する。」に含まれている。そしてこの主要な命題は、意識の統一性の命題に含まれている。もし「非我は自我を規定する。」という命題が廃棄されるのであれば、主要な命題も、そして意識の統一性の命題も廃棄されよう。したがって、命題「非我は自我を規定する。」は、廃棄されえない。この命題に含まれている対立のほうが、統一されねばならないのである。

 1. 上記の [非我は「実在を持っている」と、「いかなる実在も持たない」という] 矛盾は、決して相互規定の概念によって解消されてはいない。実在性の絶対的総体を分割可能なものとして、つまり増減されえるものとして措定するならば(こうしたことをなしえる権利については、まだ説明されていないが)、私たちは実在の諸部分を自由に取り去ることができ、そしてそれら諸部分を非我のうちへと必然的に措定せざるをえない。ここまでは、相互規定の概念によって分かっている。
 しかし、いかにして自我のもつ実在性から、その部分を取り去ることができるのか? これはまだ触れられていない問題である。むろん反省は、相互規定の法則によれば、一方において廃棄された実在を、それと対立措定されているものうちへと措定する。反省がなんらかの実在を廃棄したときにはである。しかし、反省が相互規定を行うことを正当化したり、強いたりするものは何であろうか?
 より明瞭に言おう。自我のうちには端的に実在性が措定されている。第3の原理 [自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。] において、そして今しがたまったく明確に、非我は定量として措定された。定量とは「あるもの」であり、したがって実在である。しかしながら、非我は否定性でなければならず、よっていわば実在的否定性reelle Negation(負の量negative Größe)である。
 たんに関係 [相互規定] の概念によれば、対立措定されている2つのもののうちのどちらに実在性を帰属させるか、またどちらに否定性を帰属させるかは、まったくどうでもよいことである。対立措定されている2つの対象のどちらから反省が出発するかによって、それは決まるといえる。このような事情は、質を完全に捨象し、量のみを問題にする数学においても同じである。私が後方への歩数を正の量と呼ぶか、前方への歩数をそう呼ぶかは、それ自体としてはどうでもいいことである。
 知識学においても同様である。自我のうちで否定性であるものは、非我のうちでは実在性であり、その逆もまた成立する。ここまでは相互規定の概念によって、決められているのである。[だから] 自我のうちにあるものを実在性と呼ぼうが、否定性と呼ぼうが、それは私次第ということである。ここではたんに相対的実在性relativer Realitätが問題となっているだけである。
 したがって実在性の概念自体において、両義性が表れる。この両義性は、まさに相互規定の概念によって生じたのである。この両義性が除かれなければ、意識の統一性が廃棄されてしまう:つまり、「自我は実在性である」、そして「非我も同様に実在性である」となってしまう。そして自我と非我はもはや対立措定されていず、「自我≠自我」、「自我=非我」ともなってしまう。

 2. 前記の [非我は「実在を持っている」と、「いかなる実在も持たない」という] 矛盾が満足のいくよう解消されるべきだとすると、とりわけ上記の両義性が廃棄されねばならない。前記の矛盾はこの両義性の後ろに隠れているのであり、真の矛盾ではなく、ただの見かけ上の矛盾にすぎないのかもしれないのである。
 すべての実在の源は自我である。というのも、自我は直接的なものであり、端的に措定されたものだから。自我によってはじめて、また自我と共に、実在性の概念が与えられる。
 ところで、自我が存在するのは、自我が自己措定をするからであり、自己措定するのは、存在するからである。したがって、自己措定と存在は、一つの同じものである。しかし、自己措定の概念と活動一般の概念は、これまた一つの同じものである。だから、すべての実在は、活動的である。そして、すべて活動的なものは、実在である。活動は、積極的でpositiv絶対的な実在性である(たんなる相対的な実在性とは対照的に)。

 (活動の概念をここでは純粋に考えることが、必要である。自我の自己自身による絶対的措定のなかに含まれていないものは、この活動の概念によって示されえない。つまり、命題「私は存在する」のうちに直接的に存在しないものは、示されないのである。したがって、時間に関することZeitbedingungenや、すべての活動対象については、完全に捨象されなくてはならない。自我の事行は、自我が自らの存在を措定することにおいて、対象に向かうことはなく、ただ自らのうちへと帰還するのである。自我が自己自身を表象するときにはじめて、自我は対象となる。)

 3. [他方では] 自我は規定されていなければならない。つまり実在性ないし活動は、自我のうちで廃棄されていなければならない。したがって自我のうちには活動性の反対が措定されている。活動性の反対とは受動Leidenである。受動は、積極的な絶対的否定性であり、その点では、たんに相対的否定性とは区別される。

 (受動Leidenという言葉が、多義的でなければよかったであろう。ここでの私たちの用法には、「苦痛の感覚」が含まれぬことは言うまでもない。また、あらゆる時間に関することや、さらに今までのところでは、受動をひき起こすような、対立措定されているもののうちでの活動すべては、捨象されねばならない。
 受動は、活動という純粋概念のたんなる否定である。しかも、活動の概念が量的であるため、受動も量的な否定性である。というのも、活動のたんなる否定であれば、活動の量が捨象されて0になってしまい、「静止Ruhe」であろう。
 自我のうちにあっても、「私は存在する」のうちには直接はないもの、また自我の自己自身による措定によっては直接には措定されていないもの、そうしたものすべては、自我にとっては受動(触発Affektion一般)である。)
 
 4. 自我が受動の状態にあるとき、実在性の絶対的総体が維持されねばならないとすると、必然的に相互規定の法則によって、この受動と同じ程度Gradの活動が、非我のうちへと移される。
 こうして、上記の [非我は「実在を持っている」と、「いかなる実在も持たない」という] 矛盾は解消される。非我はそれ自体としては、実在性を持ってはいない。しかし、自我が受動するかぎりで、相互規定の法則により、非我は実在性を持つ。「自我が触発されているかぎりで、非我は自我に対して実在性を持つ。そして、自我の触発という条件がなければ、非我はまったく実在性を持たない。」という命題は、その帰結するところのために、きわめて重要である。

 5. 今導出された総合的概念 [自我が触発されているかぎりで、非我は自我に対して実在性を持つ] は、より高次の相互規定という概念に含まれている。というのは、この総合的概念においては、一方の非我の量は、それに対立措定されている自我の量によって規定されるからである。しかしこの総合的概念は、相互規定の概念とは種としての区別がある。すなわち、相互規定の概念においては、対立措定されている2つのもののうち、どちらが他方によって規定されるかは、まったくどうでもよかったのである。どちらに実在あるいは否定性が帰属させられるかは、任意だったのである。量が、たんに量が規定されたのだった。
 しかし、目下の総合では、事情が異なる。対立措定されている2つのもののうち、どちらに実在性が、またどちらに否定性が帰属するかは決められている。したがって目下の総合によって、一方へは活動性が、しかも他方へ受動性が措定される程度と同じだけの活動性が、措定されるのである。そして逆に、活動性が措定される程度と同じだけ、受動性が措定されるともいえる。
 こうした総合は、作用性Wirksamkeit(因果性Kausalität)の総合と名づけられる。活動性が帰属させられるものは、原因Ursache(積極的な、端的に措定された実在)と呼ばれる。受動性が帰属させられるものは、結果das Bewirkte(帰結Effekt。したがって他の実在に依存する実在である)と呼ばれる。原因と結果の両者が結合して考えられたものが、因果作用Wirkungと呼ばれる。

 (上記のように導出された作用性の概念においては、経験的な時間に関することは完全に捨象されねばならない。そしてこの作用性の概念は、時間とは関係なく正しく考察されえるのである。一つには、時間はまだ導出されてはいないので、私たちは時間の概念を使う権利を持ってはいない。また一つには、ある特定の作用性において原因が活動的であるかぎり、原因を結果より時間上先行するものとして、考えねばならないというのは、まったくの誤りである。原因と結果は、総合的統一によって、一つの同じものとして考えられるべきである。
 時間において因果作用に先行するのは、原因なるものではなく、作用性が帰属する実体なのである。その理由はやがて明らかとなろう。また、作用を受ける実体が、実体のうちで結果となって生じるものより、時間において先行する。)
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D. 対立措定されている2つの命題のうちの、2番目の命題に含まれている対立物の相互規定による総合
 Synthesis durch Wechselbestimmung der in dem zweiten der entgegengesetzten Sätze enthaltenen Gegensätze
 
 主要な命題「自我は自らを、非我によって規定されたものとして措定する。」に含まれているものとして提示された2番目の命題「自我は自らを、規定されたものとして措定する、つまり、自我は自己規定する」は、それ自身対立を含んでいる。それゆえ、2番目の命題は、自らを廃棄する。しかし、廃棄するとなれば、意識の統一性をもまた、間接的ではあれ廃棄してしまうので、[そうならないために] 私たちは新しい総合によって、2番目の命題中の対立を、統一しなければならない。
 [その対立は、次のaとbである。]
 a) 自我は自らを規定する。自我は規定するものであり、したがって活動的である。
 b) 自我は自らを規定する。自我は規定されたものであり、したがって受動的である。(規定性は、自我の内的な意味においては、つねに受動や実在の損失を示している。)
 そこで自我は、一つの同じ行為において、同時に活動的でもあれば受動的でもある。自我には同時に、実在性と否定性が帰属する。このことは疑いもなく、矛盾というものである。
 この矛盾は相互規定の概念によって解消されねばならない。そしてこの矛盾が完全に解消したといえるのは、上記のaやbの命題のかわりに、次のような命題が考えられたときであろう:「自我は活動によって、自我の受動を規定する」、あるいは、「自我は受動によって、自我の活動を規定する」。そのときには、自我は一つの同じ状態において、同時に活動的でもあれば受動的でもあるから。ただ問題は、そうした命題が考えられるかどうか、またいかにして考えられるかということである。

 規定一般(すなわち測定ということ)が可能であるためには、尺度が確立していなくてはならない。根本的には自我のみが、端的に措定されているのだから、この尺度は自我自体でしかありえない。
 ところで、自我のうちには実在性が措定されている。したがって、今しがた問題をはらみつつも提示された総合、つまり、自我が同時に活動的でもあれば受動的でもあるような総合が可能で、矛盾が十分に解消されるためには、自我は実在の絶対的総体(したがって、すべての定量を含む定量、すべての定量に対する基準)として、措定されていなければならない。しかも、根源的で端的に措定されている必要がある。したがって:

 1. 自我は端的に、いかなる根拠もなく、またいかなる条件にもよらず、実在の絶対的総体を定量として措定する。端的にこの措定にもとづいて、この定量をこえる定量はありえない。自我はこうした実在の絶対的最大量を、自らのうちに措定するのである。
 自我のうちに措定されているものは、すべて実在である。そしてすべての実在は、自我のうちに措定されている(第1章を参照)。この自我のうちの実在は、ひとつの定量であり、しかも端的に措定されている定量である(第3章を参照)。

 2. このように端的に措定されている尺度 [自我] によって、実在の欠如(受動)の量が規定されねばならない。しかし、欠如は無である。そして、欠如するものも無である。(存在しないものは知覚されない。)したがって欠如は、実在の欠如していない部分が規定されることによってのみ、規定されえる。よって、自我はただ、自我のもつ実在の限定された量 [欠如していない部分の量] を規定できるだけである。そして限定された量の規定によって、否定性 [欠如] の量もまた同時に規定されている。(相互規定の概念によって)。
 (私たちはここでは、実在性の対立物としての、自我のうちでの否定性の規定は、まったく捨象している。そしてたんに実在の定量――これは定量総体より少ない――の規定に、注目しているのである。)

 3. 定量総体とは等しくない定量の実在は、否定性である、すなわち総体の否定である。そうした実在の定量は、限定された量として、総体に対立措定されている。すべての対立措定されているものは、それが対立しているものの否定である。ある特定の量は、すべて総体ではない。

 4. しかし、このような定量が総体に対立措定されえるためには、つまり、総体と比較されえるためには、この定量と総体のあいだに「関係の根拠」[共通な特徴] がなければならない。この「関係の根拠」は、可分性の概念である(第3章を参照)。絶対的総体のうちには、いかなる部分もない。しかし、絶対的総体はその部分と比較できるのであり、また区別されえる。そしてこのことによって、上記の [自我には同時に、実在性と否定性が帰属するという] 矛盾は十分に解消されるのである。

 5. このことを明確に理解するために、実在性の概念について考えてみよう。実在性の概念は、活動の概念と等しい。「すべての実在は、自我のうちへ措定されている。」ということは、「すべての活動は、自我のうちへ措定されている。」ということである。また、その逆も成立する。そして「自我のうちのすべては、実在である。」ということは、「自我はただ活動的である。」ということである。活動的であるかぎりで、それは自我である。活動的でなければ、それは非我である。
 すべての受動は、非-活動である。したがって、受動は活動に関係していることによってのみ、規定される。
 このことは、活動を介しての相互規定によって、受動が規定されるべきであるという私たちの課題に、よく適合している。

6. 受動が活動に関係することができるのは、活動が受動との「関係の根拠」を持っているときである。この「関係の根拠」とは、実在性と否定性の普遍的「関係の根拠」、つまり量の「関係の根拠」にほかならない。「受動は量によって活動に関係づけられる」ということは、「受動は一定量の活動である」ということである。

 7. 一定量の活動というものが考えられるようになるには、活動の尺度を持たねばならない。つまり、活動一般(実在の絶対的総体と言われているもの)を持たねばならない。定量一般 [実在の絶対的総体] が基準である。

 8. 自我のうちにすべての活動が措定されているとき、一定量の活動の措定は、活動の減少になる。そのような一定量は、すべての活動ではないのだから、受動である。この一定量が、それ自体としては活動であるとしても。

 9. したがって、一定量の活動の措定によって、そしてこの活動を、全活動としての活動に対立措定することによって、受動が措定される。すなわち、一定量の活動そのものが、受動として措定され、また受動性として規定される。
 (「規定される」と、私は言った。すべての受動は、活動の否定である。一定量の活動によって、活動の総体は否定される。そしてこのことがおきるかぎり、定量は受動の領域に属する。[しかし] 定量が一般に活動として考察されるならば、定量は受動の領域に属するのではなく、この領域から排除されている。)

 10. 今やあるXが提示されているのである。このXは、同時に実在性、否定性であり、活動、受動である。
a) Xは非我と関係する点では、活動である。というのは、Xは自我のうちに、しかも措定し行為する自我のうちに措定されているからである。
b) Xは行為の総体に関係する点では、受動である。Xは行為一般ではなく、規定された行為である。つまり、行為一般の領域に含まれる、特殊な行為の仕方である。

 (円Aを描くと、円周によって局限された [円の内部にある] 平面Xは、除外された [円の外側に] 無限に広がる平面に、対立措定されている。[そして] 円Aの内側に円Bを描くと、円Bの円周によって局限された [円Bの内側の] 平面Yは、円Aの内側にある。そして同時に平面Yは、円Aの内側と共に、円Aによって除外された [円Aの外側の] 無限の平面に対立措定されている。そのかぎりで、平面Yは平面Xに等しい。
 しかし、平面Yを円Bの内部にあるものとして考えるときには、平面Yは、円Aの外側の無限に広がる平面ならびに、平面Yを含まない平面Xに、対立措定されている。それゆえ、空間Yは自己自身に対立措定されている。つまり空間Yは、平面Xの一部か、あるいはそれだけで存立している平面Yである。)

 一例をあげよう:「私は考える」はまず活動の表現である。さらに、否定の、限定の、受動の表現である。というのは、考えることは、存在することのある特殊な規定だからである。そして、考えることの概念においては、他の種類の存在仕方はすべて除外されている。したがって、考えることの概念は自らに対して対立措定されている。この概念は、考えられている対象と関係する点では、一つの活動を表す。しかし、存在一般に関係する点では、一つの受動を表す。というのも、考えることが可能であるためには、存在することが限定されねばならないからである。
 自我の可能なそれぞれの述語は、自我の限定を表す。主語である自我は、端的に活動的なものであり、存在するものである。述語によって(例えば、私は「表象する」とか、私は「努める」など)これらの活動は、ある境界づけられた領域に局限されるのである。(どのようにして、また何によって、こうしたことが起きるのかについては、ここではまだ問題にしない。)

 11. 自我がその活動によって、また活動を介して、いかに自我の受動を規定するかということが、今や完全に分かるであろう。そしてまた、自我が同時に、活動的であって受動的でありえるのは、いかにしてであるかも分かろう。
 実在の絶対的総体のうちに含まれているすべての諸領域のうちの、ある特定の領域へと、自我は絶対的自発性によって、自らを措定する――こうした限りで、そしてまた、たんにこの絶対的措定のみが反省せられて、領域の境界は捨象される限りで――自我は規定するものなのである。
 自我がある特定の領域のうちで措定されたものとして考察され、措定の自発性が捨象される限りで、自我は規定されているのである。

 12. 私たちは、前に提示された矛盾、「自我は、一つの同じ行為において、同時に活動的でもあれば受動的でもある。」という矛盾を、解消することのできる自我の根源的総合行為を発見し、またこれによって新しい総合的概念を発見した。この総合的概念は、なおより詳しく調べる必要がある。
 この総合的概念は、前述の作用性Wirksamkeitの概念同様、より詳しく規定された [より特殊な] 相互規定である。そこで、この総合的概念と作用性の2つの概念を相互規定と比較し、また2つの概念どうしで比較するならば、2つの概念に対する完全な理解が得られるであろう。
 規定一般の諸規則にしたがって、
a) 前記の総合的概念と作用性の概念は、相互規定の概念に等しくなければならない。
b) 2つの概念は、相互規定に対立措定されていなければならない。
c) 2つの概念が相互規定に対立措定されている限り、2つの概念は互いに等しくなければならない。
d) 2つの概念は互いに対立措定されていなければならない。

[aから検討していこう。]
a) 2つの概念においては、相互規定においてと同様に、活動は受動によって規定される。あるいは、(同じことであるが)実在は否定によって規定される。その逆もまた成立する。こうした点において2つの概念は、相互規定に等しい。

b) 2つの概念は、相互規定に対立措定されている。というのも相互規定においては、ただ一般的に「交代Wechsel」が措定されているだけであり、規定されてはいない。[だから] 実在から否定へ移行するか、その逆に移行するかは、その人の自由に任されている。[ところが] 2つの最後に導出された総合 [前記の総合的概念と作用性の概念] においては、交代の順序は決められて固定されている。

c) 2つの概念においては順序は固定されている、というまさにこの点において、2つの概念は等しい。

d) 交代の順序という点においては、2つの概念は対立措定されている。因果性の概念においては、活動は受動によって規定される。今しがた導出された [総合的] 概念では、受動が活動によって規定される。

 13. すべての実在を含むような、端的に規定された全範囲を、包括するものとして考えられた自我は、実体Substanzである。自我が端的には規定されていない領域に措定されるかぎり、自我は遇有的akzidentellである。(どのように、また何によってこの領域が規定されるのかということは、さしあたっては探求されていない。)あるいは、自我のうちに遇有性Akzidensが存在する。
 この特殊な [端的には規定されていない] 領域を、[規定された] 全範囲から切り離す境界が、遇有性を遇有性たらしめるものである。この境界は、実体と遇有性の間の区別根拠である。この境界は [規定された] 範囲のうちにある。したがって、遇有性は実体のうちに帰属してan der Substanz存在する。境界とは、何かを全範囲から除外するものである。したがって、遇有性は [除外されており] 実体ではない。

 14. いかなる実体も、遇有性への関係なくしては考えられない。というのも、絶対的範囲のうちへ諸領域を措定することによって、自我は初めて実体になるのである。遇有的なさまざまなものによって、初めて実在物は生じるのである。そうでなければ、すべての実在物は端的に一つであろう。自我がもつ諸実在は、自我の行為仕方Handlungsweisenである。すべての可能な行為仕方(存在の種類Arten zu sein)が自我のうちに措定されているかぎりで、自我は実体である。
 実体なくして遇有性は考えられない。というのは、あるものがある特定の実在だということを認識するためには、このあるものを実在一般 [実体] に関係付けねばならないからである。
 実体とは、一般的に考えられたすべての変化である。Die Substanz ist aller Wechsel im allgemeinen gedacht. 遇有性とは、他の変化するものと共に変化するような、ある特定のものである。das Akzidens ist ein Bestimmtes, das mit einem andern Wechselnden wechselt.
 根源的にはただ一つの実体、自我が存在する。この一つの実体のうちに、可能なすべての遇有的なものが、したがって、可能なすべての実在が措定されている。ある一つの特徴においては等しいいくつかの遇有的なものが、どのようにして一まとめに把握され、そして、それら把握されたもの自身が諸実体として考えられるようになるかは、やがて明らかとなるだろう。

(注釈)自我が自己自身を、実体と遇有性として、区別したり比較したりする活動や、何が自我をしてこのような活動をさせるのかということについては、まだ探求されていず、まったく不分明なままである。後者の活動をさせるものについては、最初の総合 [自我は自らのうちに、可分的な自我に対し可分的な非我を対立措定する。] から推測するかぎり、非我の因果作用Wirkungであろうか。
 したがって、あらゆる総合の場合にそうであるように、まん中 [今の場合、上記最初の総合に登場する主語の自我] においてはすべてが正しく統一されて、結合されている。両端 [最初の総合での可分的な自我と可分的な非我] がそうなっているのではない [統一されて、結合されるのではない]。
 
 このような注意は、知識学の仕事の新しい側面を示している。知識学はつねに、対立措定されているものの間へ中間項を挿入し続けるのである。しかしそのことによって、矛盾は完全に解消するのではない。ただ先送りされるだけである。統一された2項――だがより詳しく探求すれば、それらの項は完全には統一されていないことが、明らかとなるが――の間へ、新しい中間項を挿入すれば、むろん最後に提示された矛盾は除ける。しかしその矛盾を解消するためには、新しい両極を仮定せねばならなかったのである。これら両極は再び対立措定されており、あらたに統一されねばならないこととなる。

 すべての他の課題を含むような、最高度の本来的な課題は、自我と非我は完全に対立措定されているにもかかわらず、どのようにして両者が相互に直接働きかけえるか、ということである。人は自我と非我の間へ、この両者が作用を及ぼすような何かあるXを押しこむというようなことをする。すると両者は間接的に相互作用する。しかしすぐに、このXのうちに再び、自我と非我が直接出会うような点が必要だということが分かってくるのである。
 こうしたことを防ぐために、両者のあいだへ、また鋭い境界のかわりに、人は新しい中間項Yを挿入する。しかしすぐに、Xにおいてと同様Yのうちにも、対立措定されている両者が直接ふれ合うような点が、存在しなければならないことが明らかとなる。
 こうして、理性の絶対的裁断「非我は自我とはいかなる仕方でも統一されないのだから、非我なるものは一般的に存在しない。」によって、結び目 [当該の困難な問題] が [知的に] 解かれないまでも、 [暴力的・意志的に] 切断もされなければ、中間項を挿入するという事態は、いつまでも続くことになるだろう。

 この問題は他の側面から見ることもできよう。自我は非我によって限定されるかぎり、自我は有限である。自我は自らの絶対的活動によって措定されるかぎり、つまり、それ自体としては無限である。自我のうちの両者、無限性と有限性は統一されねばならない。しかしそのような統一は、もともと不可能である。無限性と有限性の争いは、たしかに媒介によって長々と調停されはする。無限性が有限性を境界づけるのである。しかし最後には、求められている統一は完全に不可能であることが分かるので、有限性一般が廃棄されねばならない。すべての制限は消えねばならず、無限な自我だけが唯一のものとして、またすべてとして、残らねばならないのである。

 途切れることのない空間Aにおいて、点mに光が、点nに闇があるとする。すると、この空間は連続していて、mとnの間に間隙Hiatusもないのであるから、mとnの間には必然的に点oが、同時に光と闇である点oがなければならぬことになる。しかしこれは矛盾している。
 そこで、mとnの間に媒介項である薄明が置かれる。薄明がpからqまであるとすると、pでは光と接し、qでは闇と接することになる。しかしこのように設定しても、矛盾は十分には解消されておらず、ただ解消への猶予を得たのみであろう。
 [というのは] 薄明は光と闇の混合である。さて点pにおいて、光が薄明と接しえるのは、
・点pが、同時に光と薄明であることによってであるが、
・薄明が光から区別されるのは、ただ薄明が闇でもあるためなので、[結局] 点pは同時に光であり闇であることによってである、
ということになってしまう。。
 点qにおいても同様のことがいえる。
 したがって、前記の矛盾が解消されるのはまさに、光と闇が一般的に対立措定されていなくて、明るさの程度の差において区別されるためということになる。闇はたんに光の量が大変少ないということである。
 自我と非我のあいだの関係もこのようなものなのである。(注釈終了)
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E. 2つの提示された相互規定の仕方の間に生じた対立の、総合的統一
 Synthetische Vereinigung des zwischen den beiden aufgestellten Arten der Wechselbestimmung stattfindenden Gegensatzes

 「自我は、非我によって規定されたものとして、自らを措定する」という主要な命題から、私たちは出発した。そしてこの命題は、意識の統一を同時に廃棄することなくしては、廃棄されなかった。しかし、この命題のうちには、解消しなければならない矛盾があったのである。
 まず、「どのようにして自我は、同時に規定し、また規定されえるのか?」という問題が発生した。これに対しては、「規定することと規定されることは、相互規定の概念を介することによって、一つの同じものである」と私たちは答えたのである。したがって自我が、否定のある特定の量を自らのうちに措定すると同時に、自我は実在の特定の量を非我のうちへ措定する。そしてこの逆もまた成立する。
 そこで残った問題は、「実在はどちらへ措定されるべきか、自我のうちへか、非我のうちへか?」ということである。これに対しては、作用性Wirksamkeitの概念を介することによって、「自我のうちへ否定性ないし受動が、そして相互規定一般の規則にしたがって、同じ量の実在ないし活動が、非我のうちへ措定されるべきである」と答えた。
 「しかし、どのようにして受動が自我のうちへ措定できるのか?」という更なる質問には、実体性の概念を介して、次のように答えたのである:「自我のうちの受動と活動は、一つの同じものである。というのも受動は、より少ない定量の活動だからである。」

 しかしこれらの答えによって、私たちは一つの円環のなかへ巻きこまれた。自我が、より少ない程度Gradの活動を自らのうちへ措定するときには、むろんそのことによって自我は、自らのうちへ受動を、非我のうちへ活動を措定する。しかし、自我は自らのうちへ、低いnieder程度の活動を端的に措定する能力はもっていない。というのも、実体性の概念によれば、自我はあらゆる活動を自らのうちへ措定するのであり、活動以外のものを自らのうちへ措定すること、はできないのだから。
 したがって、自我のうちに低い程度の活動が措定されるときには、それに先だって非我の活動が先行する必要があろう。自我がより少ない部分的活動を自らのうちに措定できる前に、非我の活動が、まず自我の活動の一部を実際に否定しなければならないであろう。しかしこのようなことも、同様に不可能である。というのは作用性Wirksamkeitの概念によって、自我のうちへ受動が措定されているかぎりにおいて、非我に活動が帰属するからである。
 
 問題となっていることの要点を、とりあえずはアカデミックなschulgerecht形式でこそなけれ、より明瞭には説明してみよう。時間の概念を、分かっているものとして前提にすることを、許していただきたい。
 最初の、作用性の概念にしたがう場合として、自我が限定されることは、ただ非我の活動から起きると、想定してみよう。ある時点Aでは、非我は自我に働きかけていないとすれば、自我のうちには全実在が存在し、否定性はないことになる。したがって、非我のうちには、実在は措定されていない。
 さらにBの時点で、非我が程度3の活動でもって自我に働きかけるとしよう。すると相互規定の概念によって、程度3の実在が自我のうちで廃棄され、その代わり自我のうちには程度3の否定性が措定されている。その際には、自我はただ受動的である。否定性の程度は、むろん自我のうちに措定されている。だがこの否定性の程度は、ただ自我の外部の知的存在者に対して――因果作用のうちの自我と非我を観察し、相互規定の規則にしたがって判断している存在者に対して――、措定されているのであって、自我自身に対してなのではない。自我に対して措定されているためには、自我がAの瞬間における自らの状態を、Bの瞬間における自らの状態と比較し、2つの瞬間に置ける自らの活動量の違いを区別できなければならない。このことがどのようにして可能かは、まだ示されてはいない [つまり不可能である]。
 前段落での仮定の場合には、自我はたしかに限定されているが、自我は自分が限定されていることを意識してはいない。私たちの命題の用語を使って言えば、自我はたしかに規定はされていようが、しかし規定されたものとしては、自我は自らを措定していない。ただ自我の外部の存在者が、自我を規定されたものとして措定しえるのであろう。

 第2の、ただ実体性の概念にしたがう場合として、自我が端的に、そして非我のあらゆる働きかけからは独立に、思いのままに、減少された定量の実在を自らのうちに措定する能力を持っていると、想定してみよう。超越論的観念論が前提とする想定であり、とりわけ、このような観念論である予定調和の説が前提とする想定である。このような想定は、最初の絶対的原理 [自我は自らを措定する] にもう矛盾していることは、ここでは考えに入れない。
 上記の想定に加えるに、減少された定量を絶対的総体と比較し、後者でもって前者を量る能力を自我に与えよう。このような想定のもとで、A時点での自我には程度2を減じた活動を与え、B時点での自我には程度3を減じた活動を与えるとする。すると、どのように自我が2つの時点で限定されたものとして、しかもB時点ではA時点より限定されたものとして判断されえる [つまり、3-2=1だけより限定されている] かが、よく分かる。しかし、どのように自我がこれらの限定を、限定の原因としての非我のうちの何かへ、関係づけえるのかは、まったく分からないのである。むしろ自我は、自己自身を限定の原因として考えねばならないだろう。私たちの命題の用語で言えば:自我は自らをたしかに規定されたものとして措定したが、非我によって規定されたものとしては、措定しなかった。
(独断的観念論者は、前記の非我へ関係付けることの資格を否認する。その限りでは、彼は首尾一貫している。しかし、[自我が限定されていることが非我に] 関係があるという事実は、彼も否認しえないし、だれも否認しようとは思わない。そうであってみれば、独断的観念論者はこの認められた事実を、少なくとも説明しなければならないであろう。しかし彼が前提とすること [非我なるものは存在しない、ということ] からして、彼はこのことをなしえない。それゆえ、彼の哲学は不完全なものである。
 彼がその上、私たちの外部にある物の存在を仮定することにでもなれば――予定調和説において、少なくとも若干のライプニッツ主義者たちにおいてそうであるように――、彼は首尾一貫していないことにもなる。)
 
 したがって2つの総合は、別々に使われると、それらが説明すべきものを説明しはしないし、上記の非難された矛盾も残ることになる:「自我が規定されたものとして自己を措定すれば、自我は非我によっては規定されない。自我が非我によって規定されれば、自我は規定されたものとしては自己を措定しない。」

I. 今や私たちはこの矛盾を、次のように完全に規定されたものとして、提示する。
 「自我は非我のうちに活動を措定しないでは、いかなる受動も自らのうちへ措定できない。しかし、自我は受動を自らのうちへ措定することなくしては、非我のうちへいかなる活動も措定できない。自我は一方をしないでは、他方ができない。自我は端的に一つもできない。したがって、自我は2つともできない。」そこで、
 1. 自我は、「活動を非我のうちへ措定する限りで、受動を自らのうちへ措定する」ということはせず、「自らのうちへ受動を措定する限りで、非我のうちへ活動を措定する」ということもしない。自我は、一般的に、措定しない。(注意すべきは、相互規定それ自体の規則が問題となっているのではなく、目下の場合への交互規定の適用が、問題視されているのである。)
 このことは、今しがた証明されたとおりである。
 2. しかし、自我は自らのうちへ受動を措定しなければならないし、そのかぎり、非我のうちへは活動を措定しなければならない。またこの逆もまた成立する。端的に措定された上記の諸命題からの帰結によって。

II. 上記2の命題で主張されていることが、上記1の命題では否定されている。
 したがって、上記1と2の2つの命題の関係は、否定性と実在性の関係と同様である。否定性と実在性は、量によって統一された。[そこで] 2つの命題は妥当しなければならないとしても、部分的にである。2つの命題は次のように考えられねばならない。
 1. 自我は、活動を非我に措定するかぎり、部分的に受動を自らのうちへ措定する。しかし自我は、活動を非我に措定するかぎり、部分的に受動を自らのうちへは措定しない。この逆もまた成立する。
(より明瞭に言えば:交互規定は、ある観点では妥当し、適用されるが、他の観点では適用されない。)
 2. 自我は、活動を自我のうちへ措定するかぎり、部分的にのみ受動を非我のうちへ措定する。そして自我は、活動を自我のうちへ措定するかぎり、部分的に受動を非我には措定しない。
(このことが意味するのは、「自我のうちには一つの活動が――その一つの活動に対しては、非我のうちには受動が措定されていない――そのような一つの活動が、自我のうちに措定されている。そして同様に、自我のうちに受動が対立措定されていないような活動が、非我のうちに措定されている。」ということである。このような種類の活動を、とりあえずは「独立的活動unabhängige Tätigkeit」と名づけておこう。)

III. しかし、このような自我や非我における独立的活動は、対立措定の法則と、そして今やこの法則が詳しく規定されてできた相互規定の法則と、矛盾する。私たちの目下の探求においては、相互規定の概念が重要な役割を果たしているが、この独立的活動は、とりわけ相互規定の概念と矛盾するのである。
 「自我のうちのすべての活動は、非我のうちの受動を規定する([あるいは] そのような受動を推論させる)。この逆もまた成立する。」こうしたことは相互規定の概念によってである。そして今や次のような命題が提示されている:
 「自我のうちのある活動は、非我のうちの受動をなんら規定しない(そのような受動を推論させない)。そして、非我のうちのある活動は、自我のうちの受動をなんら規定しない。」
 前段落の命題の前々段落の命題への関係は、否定性の実在性への関係と同様である。したがって、2つの命題は規定性によって統一されねばならない。つまり、2つの命題はただ部分的にのみ、妥当するのである。
 2つの命題のうち先に出てきた方[自我のうちのすべての活動は、非我のうちの受動を規定する。この逆もまた成立する。] Sは、相互規定の命題である。この命題は部分的にのみ妥当しなければならないということは、この命題自身が規定されねばならないということであり、この命題の妥当性が、規則によってある範囲内に局限されねばならないということである。
 あるいは、言葉を変えて言えば、自我の独立的活動と非我の独立的活動は、ただある意味においてのみ独立的なのである。このことは、すぐに明らかとなろう。というのは:

IV. 非我のうちの受動を規定し、またこの非我のうちの受動によって規定されるような活動が、自我のうちにはなければならない。そして逆に、自我のうちの受動を規定し、またこの自我のうちの受動によって規定されるような活動が、非我のうちにはなければならない。前述したようにである。こうした活動や受動には、相互規定の概念が適用可能である。
 同時に、自我と非我の両者のうちには、他方のうちの受動によっては規定されない活動がなければならない。
 2つの命題 [他方の受動を規定し、またそれによって規定される活動を述べた命題と、他方の受動によっては規定されない活動について述べた命題] は、並存できなければならない。したがって、これら2つの命題は、ひとつの総合的概念によって、一つの同じ行為のうちに統一されたものとして、考えることができなければならないのである。この概念は、相互規定の概念以外ではありえない。2つの命題が統一されたものは、次のような命題であろう:
 「行いTunと受動」(相互規定によって相互に規定しあう限りでの「行いと受動」)の交代Wechselによって、独立的な活動は規定される。逆に、独立的な活動によって、「行いと受動」の交代は規定される。(交代の領域に属すものは、独立的な活動の領域に属さない。この逆も成立する。したがって各領域は、自分に対立措定されている領域によって規定される。)
 この命題が主張されるべきだとすると、次のようなことが明らかであろう:

 1. いかなる意味において自我の独立的活動と、非我の独立的活動が、相互に規定しあうか。そしてまた、いかなる意味において、規定しあわないのか。これら両者は、直接には規定しあわない。しかし間接的には、自我と非我の、交代する「行いと受動」によって規定しあう。
 2. どのようにして相互規定の命題が、同時に妥当できたり、妥当できなかったりするのか。この相互規定の命題は、「交代と独立的活動」には適用できる。しかし、「独立的活動と独立的活動」には適用できない。「交代と独立的活動」は相互規定の命題のもとにあるが、しかし、「独立的活動と独立的活動」はそうではない。

 私たちは今や、上記の命題 [「行いと受動」の交代によって、独立的な活動は規定される。逆に、独立的な活動によって、「行いと受動」の交代は規定される。] の意味を考えるときであろう。
 上記の命題には、次の3つの事柄が含まれている。
1. 「行いと受動」の交代によって、独立的活動が規定される。
2. 独立的活動によって、「行いと受動」の交代は規定される。
3. 「行いと受動」と独立的活動の両者は、互いによって規定されあう。そして、「行いと受動」から独立的活動へ移行しようが、逆に、独立的活動から「行いと受動」へ移行しようが、それは問題とはならない。
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 上記1の命題に関しては、まず、「行いの交代によって、独立的活動が規定される」とは一般的にいかなることであるかを、探求しなくてはならない。そしてその命題を、当面している諸問題に適用しなくてはならない。

1. 「行いと受動」の交代によって、一般的に独立な活動は規定される。(交代のある特定の量が措定される。)
 私たちはここで、相互規定の概念そのものを規定しているということ、つまり相互規定の概念の妥当する範囲を規則によって制限していることは、前に述べた [EのIII.] とおりである。
 規定することは、根拠を示すことによって起きる。この命題の適用の根拠が挙げられれば、この適用の範囲も制限されているのである。

 相互規定の命題によれば、一方のうちに活動を措定することでもって、他方の対立措定されているもののうちに、受動が直接に措定される。その逆もまた成立する。
 さて、一般的に受動が措定されねばならないときには、この受動は、活動に対立措定されているもののうちに措定されねばならない、ということは対立措定の法則から明らかである。しかし、「なぜ一般的に受動が措定されねばならないのか?」「活動が一方のうちで存在するということでもって、お終いとならないのか?」つまり、「なぜ一般に相互規定が生じるのか?」ということは、まだ答えられていない。
 受動と活動というものが、対立措定されている。しかも直接に、受動は活動によって、活動は受動によって措定されねばならない。したがって、受動と活動は、規定性の命題によって、第3項のXにおいては等しくなければならない。(意識の統一が破られることもなく、またこの統一のうちにいわば間隙を生じさせることもなく、受動から活動へ、逆に活動から受動への移行を可能にするのは、この第3項のXである。)この第3項は、交代における「行いと受動」の関係の根拠 [共通の特徴] である。(第3章を参照)
 この関係の根拠は、相互規定に依存してはいず、逆に相互規定が、この関係の根拠に依存している。関係の根拠は、相互規定によって可能となるのではなく、相互規定が関係の根拠によって可能となるのである。したがって関係の根拠は、反省においては [私たちが考察を進めていくさいには] 相互規定によって措定されるが、しかし、相互規定からは、また相互規定を介して交代するものからは、独立している。
 さらに関係の根拠は、反省においては交代によって規定されているし、また反省においては、関係の根拠が存する位置も指定される。つまり、相互規定が措定されると、関係の根拠は、相互規定の領域を含むような領域に措定される。いわば相互規定の外周のまわりに、関係の根拠によって、より大きな外周が引かれるようなものである。関係の根拠は、規定一般の領域をみたすが、相互規定は、規定一般の一部をみたすにすぎない。
 この関係の根拠は実在eine Realitätである。あるいは、相互規定を行為として考えるときには、活動eine Tätigkeitである。そこで、相互規定一般によって、独立的活動が規定される。
 (上記のことから同様に明らかであるが、すべての相互規定の根拠は、実在性の絶対的総体である。この総体はそもそも廃棄することはできない。それゆえ、この総体のうちのある定量が、あるもののうちで廃棄されれば、その定量は、このあるものに対立措定されているものに措定されねばならない。)

2. 私たちはこの普遍的命題 [「行いと受動」の交代によって、独立的活動が規定される。] を、この命題のもとにふくまれており、今現れている特殊な諸問題に適用する。

 a) 作用性Wirksamkeitの相互概念Wechselbegriffを介して、自我の受動によって、非我の活動が措定される。こうしたことは、上述の交代の種類の一つである。この交代によって、独立的活動は措定され、規定されているはずである。
 相互規定は、受動からはじまる。受動が措定されている [という端的な事実がまずある]。この受動によって、また受動を介して、活動は措定される。受動は [今の場合] 自我のうちへ措定される。この受動に活動が対立措定されるとすれば、活動は自我に対立措定されているもののうちへ、すなわち非我のうちへ措定されねばならないが、このことはまったく相互規定の概念に基づいている。
 この [受動の措定から活動の措定への] 移行においては、[受動の項と活動の項を関連づけている] 関連の項ein Glied des Zusammenhangsがたしかに存在するし、また存在しなければならない。あるいは、ここでは関係の根拠であるが、根拠が存在するし、またしなければならない。この根拠は周知のように量であって、この量は、自我と非我において、また受動と活動において、同一のままである。この量は関係根拠Relationsgrundであり、観念的根拠der ideale Grundと呼ぶのがよいであろう。したがって、自我のうちの受動は、非我の活動の観念的根拠である。今試みられたようなやり方は、相互規定の規則によって、完全に是認されていたものである。

 これまでとはまったく違う問題は、次のようなものである:「相互規定の規則を、ここで適用すべきだろうか? また適用すべきだとすれば、いったいなぜここで適用すべきなのだろうか?」「受動が自我のうちに措定されたあと、活動が非我のうちへ措定されることは疑いもなく承認できる。しかしいったいなぜ活動が、措定されるのだろうか?」このような問いには、相互規定の命題によってではなく、より高次の根拠の命題 [「関係の根拠」と「区別の根拠」がある。第3章Dの1を参照] によって、答えねばならない。
 自我のうちへ受動が措定されているということは、つまり、自我の活動の一定量が廃棄されていることである。
 この受動あるいは活動の減少は、根拠を持たねばならない。というのも、廃棄されたものは定量だからである。すべての定量は他の定量によって規定せられ、この他の定量のおかげで、当の定量は多くもなければ少なくもない、まさに当の定量として存在する。このことは規定の命題による(第3章を参照)。
 自我は自らのうちに活動を措定するのみで、受動は措定しないから、自我のうちには上記の減少の根拠はありえない。自我は自らをただ存在するものとして措定し、存在しないものとしては措定しない。(第1章を参照)
 「自我のうちには根拠は存在しない。」この命題は、自我に所属しないものは非我に所属するという対立措定(第2章を参照)によって、「非我のうちには減少の根拠が存在する」という命題と同じことである。
 ここにいたっては、もはやたんに量が問題なのではなく、質Qualitätが問題である。自我の本質が存在にあるかぎり、受動は自我の本質に対立措定される。そしてただこの限りで、受動の根拠は自我のうちにではなく、非我のうちに措定されえた。受動は、実在に対立措定された質として、否定として措定される。(たんにより少ない定量の活動としてではない。この第4章のBを参照。)
 質の根拠は、実在的根拠といわれる。交代からは独立で、交代が可能であるためにすでに前提とされている、非我の活動が、受動の実在的根拠である。そしてこの非我の活動は、私たちが受動の実在的根拠をもつために措定される。そこで、上記の交代によって、交代からは独立し、しかも交代によって前提された、非我の活動が措定されるのである。

 (一つには、私たちはここで、全体系が楽に見渡せる地点に到達したのだから、また一つには、独断的実在論が上記の命題から、片時でも誤った保障を引き出さないために、はっきりと確認しておこう。
 a) 非我のうちの実在的根拠にいたる推論は、自我のうちの受動が質的なものであることに基づいている。(たんに作用性の命題を反省 [考察] するときには、質的なものであるということを、仮定せざるをえない。)
 b) したがって、この非我のうちの実在的根拠にいたる推論は、上記の前提 [自我のうちの受動が質的なものであること] が妥当しえる範囲内でしか、妥当しない。[ a, b の記号付けは、訳者による。]
 
 2番目の相互概念である実体性の概念 [1番目の相互概念は作用性。この2. a)のパラグラフの最初を参照。] を、探求するやいなや、次のことが明らかとなろう。
 a) 実体性の概念についての反省においては、受動を、質的なものとしてではまったくなく、たんに量的なものとして、活動のたんに減少として考えることができる。
 b) したがって、根拠がなくなるwegfallenこの反省においては、根拠づけられたものもなくなり、そして非我は再びたんに観念的な根拠になる。[ a, b の記号付けは、訳者による。]
 つまり手短にいえば、次のようになろう。表象 [というものがどのようにして成立するかの] 説明が、つまり [この説明には] 全思弁哲学が [従事せざるをえないが、とにかくこの説明が]、
 a) 「表象の原因としての非我が措定され、そして非我の [作用の] 結果Effektとして表象が措定される」ということから出発するならば、非我はすべての実在的根拠である。非我は存在するがゆえに端的に存在する。また非我はそれがあるところのものである(スピノザ的運命)。自我自体は、たんに非我の遇有性であり、実体ではありえない。かくして私たちは、質料的スピノザ主義を得るが、これは独断論的実在論である。この体系は、非我を捨象するという最高度の抽象を欠いている。また、究極の根拠を提示しないために、まったく根拠づけられてもいない。
 b) 上記aとは反対に、「自我が表象の実体であり、表象は自我の遇有性である」ということから出発するならば、非我は表象の実在的根拠ではなく、たんに表象の観念的根拠である。したがって非我は、表象の外部でなんら実在性を持たない。非我は実体ではなく、自立的にfür sich存立するものでも、端的に措定されたものでもなく、たんに自我の遇有性である。このような体系では、自我のうちの実在性の限定に対しては(つまり、それによって表象が生じてくるところの触発Affektionに対しては)なんらの根拠も述べられない。この体系では、そのような根拠への探求は、まったく閉ざされている。このような体系は、独断的観念論であって、たしかに最高度の抽象を行っているので、完全に基礎づけられてはいる。だが、この独断的観念論は、説明されるべきものを説明しないがゆえに、不完全である[ a, b の記号付けは、訳者による。]

 したがって、実在論と観念論の真の争点は、「表象の [成立の仕方の] 説明において、どの道をとるべきか?」ということである。知識学の理論的部門においては、この問いはまったく答えられていないままである。すなわち、両方の道が正しいという答えになる。ある条件のもとでは、一方の道を行くように強いられ、反対の条件のもとでは、他方の道を行くよう強いられるのである。
 そしてこれによって、人間の理性は、すなわちすべての有限な理性は、自分自身との矛盾に陥り、循環論になってしまう。こうしたことが示されている体系は、批判的観念論である。カントがこれをもっとも首尾一貫して、またもっとも完全に提示した。理性の自分自身との対立は、理論的な知識学の分野では無理だとしても、[結局は] 解消されねばならない。
 自我の絶対的な存在を放棄することはできないのだから、論争は [絶対的な存在に関する] 最終的な推論様式に有利になるように、独断論的観念論において行われているように、決定されなくてはならない。(ただ私たちの観念論は、独断論的ではなくして、実践的である。また、存在するものを規定するのではなくして、存在せねばならぬものを規定する。)こうしたことは、説明されねばならぬことが説明されるという仕方で、行われなければならない。このことを独断論はなしえなかった。
 自我の減少した活動は、自我自身から説明されねばならない。この減少した活動の最終的な理由は、自我自身のうちになければならない。つまり、実践的な自我が措定されねばならないのだが、この実践的自我は、知的 [理論的] 自我の活動を減少させるような非我の存在の根拠を、自我自身のうちに含んでいるのである。
 こうした実践的自我は、無限の理念であって、それ自体としては考えられない。したがって、この理念によって、説明されるべきものが説明されるというより、むしろ、説明されえないということが示され、またなぜ説明されえないかが示されるのである。[紛糾している問題の] 結び目は解かれるのではなく、無限のかなたへと移されるのである。)

 自我の受動と非我の活動の交代によって、非我の独立的活動が措定された。この独立的活動は、上記の交代によってまた規定されてもいる。この独立的活動が措定されるのは、自我のうちに措定された受動を、基礎づけるためである。したがって、非我の独立的活動の範囲は、交代の範囲を越えるものではない。自我が受動するということなくしては、自我に対する非我の根源的「実在や活動」は存在しない。この「自我のうちの受動なくしては、非我のうちの活動もなし」ということは、作用性Wirksamkeitの概念からは独立な活動――これは実在的根拠であるが――としての [非我のうちの] 活動が、問題となるところでもまた妥当する。物自体でさえも、自我のうちに少なくとも受動の可能性が措定されている限りで、存在する。このことは「基準Kanon」もといえようが、この基準の完全な規定と適用可能性は、[知識学の] 実践的部門ではじめて明らかとなろう。

b) 実体性の概念を介して、そして自我のうちの活動(自我のうちの遇有性)によって、自我のうちの受動(否定性)が措定され、また規定される。この活動と受動は、交代の状態にある。活動と受動の相互の規定は、以前提示された相互規定の2番目の種類のものである。そしてまたこの交代によって、この交代からは独立で、交代のうちには含まれていない活動が、措定され、また規定されねばならない。
 活動と受動はそれら自体としては、対立措定されている。そして前に見たように、ある定量の活動を [自我と非我のうちの] 一方に措定する一つの同じ行為によって、たしかに同じ定量の受動が他方の対立措定されているもののうちへ、措定されえる。またこの逆もなされる。だが、対立措定されているもののうちへではなく、一つの同じもののうちへ、活動と受動が一つの同じ行為によって、措定されるというのは矛盾している。
 [だが] この矛盾は、前述の実体性の概念一般の導出のさいに、「受動はそれ自体としては、またその質の面からは、活動にほかならず、量の面からは、総体よりは少ない活動でなければならない」ということでもって、すでに除去されている。したがって一般的には、「少ない量が、絶対的総体によってどのようにして量られるか、また少ない量が、.量においては絶対的総体に等しくないということによって、どのようにして少ない量として措定されえるか」ということは、よく分かっている。
 [受動と活動の] 両者の関係根拠 [共通な特徴] は、今や活動である。両者の総体も非-総体も、活動である。

 しかし非我のうちにも活動が、しかも総体には等しくなく、制限された活動が、同様に措定されている。したがって、「何によって、自我の制限された活動は、非我の制限された活動から区別されるべきか?」という問いが生じる。この問いは、「このような条件のもとでもなお、どのようにして自我と非我は区別されるべきか?」ということと同じである。というのも、自我を活動的、非我を受動的となしている、自我と非我の区別根拠が、無くなっているからである。(読者諸賢におかれては、この点を看過されないよう願いたい。)
 このような区別ができないならば、要求されている相互規定もまた不可能である。そして一般的に、いかなる導出された諸規定も可能ではない。非我の活動は、自我の受動によって規定される。自我の受動は、減少後になお残っている自我の活動の量によって、規定される。ここでは、自我の活動の絶対的総体へ関係する可能性のために、減少した活動は、自我の活動であるということが、前提されている。すなわち減少した活動は、絶対的総体がそのうちへ措定されるところの自我と、同じ自我の活動である、ということが前提されている。減少した活動は、活動の総体に対立措定されている。だが、総体は自我のうちへ措定されている。そこで、上記の対立措定の規則にしたがえば、総体に対立措定されているもの、つまり減少した活動は、非我のうちへ措定されるべきであろう。しかしそうなったとすれば、減少した活動は、絶対的総体とは関係根拠によって結合されていないことになる。相互規定は生じず、今まで導出されてきたものはすべて廃棄されるであろう。
 したがって、活動一般としては総体に関係づけられないような、そのような減少した活動は、関係根拠を与ええるようなある特性を、持たねばならない。その特性によって、減少した活動は自我の活動になり、端的に非我の活動ではありえないのである。自我のこの特性は、決して非我には帰属しえないのであるが、端的でいかなる根拠ももたない措定であり、また被措定である(第1章を参照)。したがって、前記の減少した活動は、絶対的でなければならないだろう。
 
 絶対的で根拠を持たないということは、まったく制限されていないことである(第3章を参照)。だが、前記の自我の行為は、制限されていなくてはならない。このことについては、以下のように答えられよう:「前記の自我の行為が一般的に行為であって、それ以上のものではないかぎりにおいてのみ、この行為はいかなる根拠によっても、またいかなる条件によっても制限されていない。」行為することもできれば、しないこともできる。行為それ自体は、絶対的自発性によって行われる。しかし行為が、対象に向かわねばならないときには、行為は境界づけられる。行為しなくてもありえたにしろ(非我による触発にもかかわらず――このような触発が、自我の関与なくしても可能であると、反省によって考えたいときには)、しかしひとたび行為すると、行為はまさにその対象に向かわざるをえず、他の対象には向かえないのである [つまり、行為は境界づけられる]。
 したがって、示されたような相互規定によって、独立的な活動は措定されるのである。すなわち、交代のうちにある活動それ自身は、独立的であるが、それは何もこの活動が、交代のうちにある限りにおいてではなく、活動である限りにおいてなのである。独立的な活動が、交代のうちに入る限り、この活動は限定され、その限りで受動である。[つまり] 独立的な活動は、二重の観点から考察される。
 さらに、この独立的な活動は、交代によって、すなわちたんに反省において、規定される。交代を可能にするために、活動は絶対的なものと見なされねばならなかった。したがって、絶対的活動一般ではなく、交代を規定するような絶対的活動が、提示されているのである。(このような絶対的活動は、想像力Einbildungskraftと呼ばれる。このことはやがて明らかとなろう。)こうした絶対的活動は、交代が規定されえる限りにおいてのみ、措定されている。したがって、この活動の範囲は、交代の範囲自体によって規定される。
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                       I
 「独立的活動によって、「行いと受動」の交代は規定される。」[第4章E, IV, 2, 2] これが、私たちが検討せねばならない2番目の命題である。私たちは、
1. この命題一般を説明せねばならず、この命題の意味を、先行する命題 [上記Iですでに検討した1番目の命題] から、明確に区別しなければならない。
 先行する命題では、交代からはじまった。交代は生じているものとして、前提とされていた。したがって、たんに交代(一方から他方への移行)としての交代の形式が問題だったのではなく、交代の質料が、つまり、交代のうちにある2項が問題だったのである。
 交代が存在するというのであれば、交代する2項が存在しなければならない。(上記のIでは、一般的にこのように推論された。)いかにしてこれら2項は、可能なのか? そしてこれら2項の根拠として、私たちは独立的活動を示したのである。

 しかしここでは、交代から始めるのではなく、交代を交代としてはじめて可能にするようなものから出発する。そして交代の形式面からは、交代を一方から他方への移行として可能にするようなものから出発する。そして、交代へと到るのである。つまり前記Iでは、交代の質料の根拠が問題であったが、ここでは形式の根拠が問題である。交代のこの形式的根拠も、また独立的活動でなければならない。そしてこの主張を、私たちはここで証明せねばならないのである。
 私たちは、私たち自身の反省をよく考えてみるならば、交代の形式と質料の区別根拠を、より明瞭に述べることができよう。

 最初の場合 [上記I] には、交代は生じているものとして前提されている。したがって、どのように交代が生じるのかということは、完全に捨象されれている。そして、交代の状態にある2項の可能性のみが、反省されていたのである。[1例をあげれば]――
 「磁石は、鉄を引きつける。」と「鉄は、磁石によって引きつけられる。」は、互いに交代する2つの命題である。つまり一方の命題によって、他方は措定される。このことは、前提とされている事実である。しかも基礎づけられたものとして前提とされているのである。したがって、「誰が一方の命題を、他方によって措定するのか?」とか、「一般的にどのようにして、一方によって他方の措定が起きるのか?」といったことは、問われない。そのかわり、「一方の命題が他方の命題のかわりに措定されえるような、そのような諸命題の領域に、なぜ前記 [磁石と鉄に関する] 2つの命題が含まれるのか?」ということが、問われるだけである。[原文は:warum unter der Sphäre der Sätze, die einer statt des andern gesetzt werden können, eben jene beiden enthalten sind. 意味としては、訳出したようになると思いますが、ここでのdieの文法的意味が不可解です。] この2つの命題のうちには、2つの命題が交代することを可能にするような何かが、存在しなければならない。2つの命題を交代命題Wechselsätzeにするようなもの、この質料的なものを、探求しなければならない。
 
 2番目の [今の] 場合には、交代が生じること自体が反省される。したがって、交代を含んでいる命題 [そのもの] は完全に捨象される。問題はもはや「どのような正当性があって、これこれの命題が交代するのか?」ということではなく、「一般的にどのように、命題は交代するのか」ということなのでる。そして、[前の例でいえば] 鉄と磁石のそとに知的な存在者がいなくてはならず、その存在者が鉄と磁石の両方を観察し、両方の概念を自分の意識のうちで統一し、鉄と磁石の一方には他方と違う述語(引きつける、ないし、引きつけられる)を与えざるをえなくなる、というわけなのである。
 最初の場合 [前記I] には、現象についての単純な反省が生じた――観察者の反省ともいうべきものが。2番目の [今の] 場合には、この反省についての反省が、つまり、観察の仕方についての哲学者 [前記の例では、知的な存在者] の反省が生じる。
 私たちの求めている独立的活動は、たんに交代の質料を規定するのではなく、交代の形式を規定すべきであるということが分かってさえおれば、発見的方法heuristische Methodeによって、私たちの反省においては、交代から始めてもいいのである。それによって、私たちの探求の苦労は、大幅に軽減されるだろう。
 
2. 私たちは今や、すでに一般的には説明した命題を、この命題のもとに含まれる個々の場合に適用する。
 a) 作用性Wirksamkeitの交代においては、自我のうちの受動によって、非我のうちの活動が措定される。つまりある活動が、自我のうちへは措定されずに、あるいは自我から引き去られて、かわりに非我のうちへ措定される。
 [さて、私たちが今目的としている] この交代の形式のみを純粋に得るためには、措定される活動を、そこへ措定されたりされなかったりするところの項、すなわち自我や非我と同様に、捨象しなければならない。
 そして純粋な形式として残るのは、非-措定による措定あるいは移動Übertragenである。これは作用性の総合においての交代の形式的特性である。したがって、交代する活動の質料的特性である(交代を遂行するような活動的意味において)。
 この活動は、活動によって可能となり、また遂行される交代からは、独立している。そしてこの活動は、交代によってはじめて可能となるのではない。
 またこの活動は、交代の2項 [非我と自我] そのものからも独立している。というのは、この活動によってはじめて、交代する2項が存在するからである。活動が2項を交代させるのである。活動がなくとも、それ自体としては交代する2項は存在するかもしれない。とはいえ、それら2項は孤立しており、相互に結合Wechselverbindungされてはいないのである。

 すべての措定は自我の特性である。したがって、前記の移動の活動は、作用性の概念による規定が可能となるために、自我に帰属する。自我は活動を、自我から非我へ移動させる。その限りで自我は、自らのうちの活動を廃棄する。つまり、自我は活動によって自らのうちへ、受動を措定するのである。自我が、活動を非我へ移動させることにおいて活動的である限り、非我は受動的である。活動が非我へと、移動させられるのである[から]。
 (早まって、上記の命題が最初の原理 [自我は自らを措定する] に矛盾するかのように、誤解してはならない。というのも、上記の命題の検討に際しては、すべての交代から独立な非我の実在は、この最初の原理から推論されているのだから。
 [「すべての交代から独立な非我の実在」に関しては、第4章I, 2. aで「交代からは独立で、交代が可能であるためにすでに前提とされている、非我の活動」を参照。また、「推論されている」に関しては、この引用個所の直前を参照。]
 ともかく上記の命題は、証明ずみの諸命題からの正しい推論によって、上記の命題とは矛盾する命題と同様、導出されるのである。そしてこれら2つの命題が、統一されることの根拠は、やがて明らかとなろう。)

 この活動は [作用性における活動]、この活動によって可能となる交代からは、独立であると先に言ったが、これは看過されるべきことではない。この活動によってはじめて可能となるのではない交代が、あるかも知れないのである。
 上記の命題 [自我は活動によって自らのうちへ、受動を措定する。] がこうむるであろうあらゆる制限にもかかわらず、この命題によって少なくとも「自我は受動する限り、活動的でもまたなければならない。たとえたんに活動的だということはないにせよ。」との理解を、私たちは獲得したのである。そしてこれは、大変重要な獲得であり、私たちの探求の労に十分報いるものであろう。

b) 実体性における交代では、絶対的総体性を介して、活動は境界づけられたものとして措定される。つまり、絶対的総体のうち、境界によって締め出されたものは、境界づけられた活動によって措定されるのではなく、この活動のうちで欠けているものとして、措定される。
 したがって、この交代のただ形式的な特性は、措定を介しての非-措定である。「欠けているもの」は、絶対的総体のうちに措定されるのであって、境界づけられた活動のうちには措定されない。「欠けているもの」は、交代のうちには措定されないものとして、措定される。以前に提示された実体性の概念によれば、端的な措定から、しかも、絶対的総体の措定から、始まるのである。
 [「以前に提示された実体性の概念」とは、第4章Eの「実体性の概念によれば、自我はあらゆる活動を自らのうちへ措定するのであり、活動以外のものを自らのうちへ措定すること、はできないのだから。」を指すようである。]
 したがって、この交代自体を措定する行為の質料的な特性も、[形式的な特性と] 同様に、措定による非-措定でなければならない、しかも絶対的措定による非-措定でなければならない。境界づけられた活動――この活動はすでに与えられたものとして考察される――のうちの、この「措定されてはいない」ということが、どこから来るのかは、ここでは完全に捨象される。また、この「措定されてはいない」ということを基礎づけるものは何か、ということも捨象される。
 境界づけられた活動が現にある、このことは前提とされている。そして、この境界づけられた活動は、それ自体としてはどのようなものか、ということは問われない。ただ、どのようにこの活動は、境界づけられていないもの [絶対的総体] と交代するのかが、問われるのである。

 すべての措定は、とりわけ絶対的措定は、自我に帰属する。存在する交代自体を措定する行為は、絶対的措定から始まる。したがってそのような行為は、自我の行う行為である。
 自我のこの行為あるいは活動は、交代からはまったく独立している。交代は自我の活動によって始めて措定されるのである。自我の活動そのものが交代の一つの項を、つまり絶対的総体を端的に措定する。そしてこのことを介して、自我の活動ははじめて交代の他の項を、減少した活動として、総体よりも小さいものとして措定する。
 どこから活動が活動として来るのかということは、問題ではない。というのは、「活動として」の活動は、交代の項ではないからである。活動は、たんに減少した活動としてのみ、交代の項なのである。そして活動が、交代の項になるのは、絶対的総体を措定し、この総体へ関係することによってである。
 上述の独立的活動は、措定からはじまる。しかし、非-措定が本来は問題である。したがって、この独立的活動を、私たちは「外化Entäußern」と名づける。 [というのは、] 絶対的総体のうちのある特定量が、減少されたものとして措定された活動からは、除外されたのである。減少されたものとして措定された活動の内にあるものとしてではなく、外にあるものとして考察されるのである。

 この「外化」と今しがた提示された「移動」との区別を、看過してはいけない。「移動」においても、確かにあるものが自我から廃棄されるが、しかしこのことは捨象される。そして結局はただ、あるものが対立措定されているもののうちに措定される、ということだけが反省される。それに対し「外化」では、ただ除外されるだけである。除外されたものが何か他のもののうちに措定されるかどうかとか、この他のものは何であるかとかいったことは、ここでは問題とならない。
 外化の活動に対しては、受動が対立措定されねばならない、これは確言できる。すなわち、絶対的総体の一部は、外化する、[すなわち] 措定されないものとして措定される。活動は対象をもつ。総体の一部は、この対象である。この減少した活動あるいは受動が、実在のいかなる基体に帰属するか、自我にか非我にか、ということは、ここでは問題ではない。提示された命題から推論できる以上のことを、推論しようとはしないこと、また、交代の形式を純粋に把握することが、大切なのである。

 (すべての物は、それがあるところのものである。物はそれが措定されると同時に措定された諸実在性をもつ。A=A(第1章を参照)。何かあるものが、物の遇有性であるということは、まず、この何かあるものはそのものとしては、物が措定されたときに措定されなかった、ということを意味する。何かあるものは、物の本質には属していず、物の本来の概念からは除外されている。
 この遇有性の規定性を、私たちはまさに今説明したのであった。[例えば、ある人の肌の色が白いということが措定されると、「黄色い」「黒い」などは、除外されて外化される。] とはいえ、ある意味では、遇有性は物に帰属するし、物のうちに措定される。このような点についてどうなっているのかは、やがて見ることとなろう。)
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第3部 実践の学問の基礎

  第5章 第2の命題
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  第6章 第3の命題
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  第7章 第4の命題
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  第8章 第5の命題

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  第9章 第6の命題
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  第10章 第7の命題
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  第11章 第8の命題
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